2013年5月26日日曜日

混乱と助手の事件発覚


2009年8月
兼ねてから決めていたので、また、断ることもできないので安藤忠雄事務所に8月5日からインターンに行くことになった。
インターン中は環境が変わったためと仲間に支えられなんとか精神的にも持ちこたえていたが、それでも精神状態や考えや判断は不安定だった。
そのため15歳以前からずっと志望していた、ずっと建築のことばかり考えてきたのに、建築の設計という道に進む事に疑問や不安のような感情をもつようになり、それまでだったら願ってもない就職先だったであろう日本設計や安藤忠雄事務所の就職へのチャンスを逃してしまった。
日本設計に応募を出すかどうか直前まで悩んでいたが出せなかった。
同級生は安藤忠雄事務所に就職できるように上司と話をしていたが自分はそれをはたから観るしかできなかった。


この頃、ASによる新たな研究テーマ(インフラフリー技術を用いた観光プロジェクトを立ち上げ地域活性化や防災に貢献するという内容だったと思う)が通り資金を大学から出してもらえるようになった。


2009年9月
中旬に大阪から東京へ帰った
ASの研究プロジェクトにより海外調査旅行をする計画が持ち上がり、Aは先輩のHKさんが計画を考えるようにASに任された。

この頃、留学中に知り合った中国人の友人からSNS系の招待メール?が来て、そのメールを開けると自動的に自分がそのメールソフトに保存しているメールアドレスの相手に招待メールが自動的に送られてしまうということが起きて、Aはそれを全く知らずに開けてしまった。それがグループの研究室会議で話題になり、その時にSMが
「Aと友達になってもね・・・」
と言った。なんだか侮辱されているように感じた。


2009年10月
大学のカウンセリングにまた何回か行った。最初の方は就活に対する意欲がほんの少しの間、出ていたので前向きな姿勢でカウンセリングを受けることができたが、次第に気分が沈み始めた。
10月か7月だったかよく覚えていないが、若い担当の先生では経験がどうしても足りないと思い、一回年配の方にも話をしたいと申し出たが、いろいろとなぜ変えたいのかなど聞かれたり、カウンセラーは担当を変えられては困るというような意味の言動を示し、変えてもらうことを断念せざるを得なかった。どうして担当の人を短期的にでも変えてくれないのかと疑問に思った。
その後からかカウンセリングに行けなくなった。


10月か11月に日建設計の海外留学経験者向けの募集枠があるということを知り、日本設計や安藤事務所を受けなかった事に対する後悔も強くあったので、今度こそ受けようと考えて、日建設計で建築、都市それぞれで働く先輩を数人訪ねた。建築でないならば都市がやりたいのではないのかと考えるようになったが、身体が動かず、その先に何もできず、やはり自分は建築も都市も向いていないのではないかと思うようになった。
もしもそのタイミングで卒業するならば論文を2010年2月に仕上げる必要があり、しかし、インフラフリーの研究で進められるのかどうか希望がもてなかったし、新しい研究テーマを進める余裕もなく、何か調べたり作業をしていたが空回りするばかりでほとんど進まなかった。


この頃、朝日新聞?など一部記事にASの経歴詐称疑惑が取り上げられ、ASは次第に学校に来なくなっていった。新聞記者などが取材に研究室に頻繁に来るようになってきたが、SMや他の先生、学生は取材に応じることもなかった。
メールでも取材関係か何かのメールが来るようになったが、SMは学生(そばで聞いていたのはSMがUくんに対して言っていたことだった)に、
「最近変なメールが来るようになって困る。無視するように。」
という内容のことを言っていた。

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